二十三夜に魅せられて
東京・檜原(ひのはら)村の石塔石仏と各地の二十三夜塔を訪ねて
2012年9月30日日曜日
地蔵 / 中組
方形基礎に 「寒念仏」
沢又村 文政九丙戌六月吉辰
地蔵の袖や足元に子供がまとわりついている。子すがり地蔵といわれている。
全体が平板な彫りだが、それもまた面白い。三猿のような子供。
倒壊を防ぐために、無粋な鉄骨で囲まれている。
(安政三年の二十三夜塔の「関志路氏」の謎・・・だいぶ解明しました!)
2012年9月27日木曜日
馬頭観世音 / 事貫
(弘化二年像と並ぶ文字塔)
馬頭観世音 杉田長左衛門 明治九丙巳年
下に川が見えます。杉田さんという苗字はこの辺りではあまり聞きません。
2012年9月26日水曜日
馬頭観世音 / 事貫
(馬頭観音像) 弘化二巳年五月六日
川に下りて行く道の脇に、文字塔の馬頭観音と二基仲良く並ぶ。
馬頭が大きく、頭を突いているようで可笑しい。
昔はこの通りがメインだったのかもしれない。川のそばにも石塔がいくつか在った。
弘化二年は1845年。
2012年9月24日月曜日
庚申塔 / 千足
檜原村に戻ります。
(青面金剛庚申塔) 無年銘 檜原村千足 二猿
庚申塔に彫られた猿は、一猿・二猿・三猿・群猿の形式がみられる。多摩地方では・・・・二猿は、五日市町乙津の正徳1年(1711)塔の桃持ち猿、檜原村千足の年不明塔の合掌猿など・・・ 「青梅市の石仏」 昭和49年 青梅市教育委員会
日本石仏事典第二版に、青面金剛の像塔の初出は茅ケ崎市の1654、1655年のもので、二猿が刻まれているとある。 合掌する猿が素直で可愛らしい。
2012年9月23日日曜日
佐賀県嬉野市 / 二十六夜塔
二十六夜 大正三年
佐賀県嬉野市塩田町 常在寺
「各組毎に毎二十六日夜、各家の主婦が家回しで六夜待講を催している。この二十六夜塔は五組の女の人によって建てられている。
六夜尊像の軸物を<えつう>の家では床の間に飾り、ごっくうさん(円錐形の握り飯)をその前に供える。」
(調査の時点 明治四〇年頃とあるが、その頃の話をお年寄りから聞きとったものと思われます) 「佐賀県の民俗 下巻」 佐賀県教育委員会編 昭和49年
二十六夜の本尊は「愛染明王」
2012年9月22日土曜日
佐賀県・嬉野市 / 二十三夜塔
勢至菩薩 (文字塔)佐賀県嬉野市塩田町 常在寺
明治十九年五(?)月廿三日建立之
二十三夜待連中
田中清兵衛・・以下8人の氏名がある
常在寺は真言宗御室派
藤津郡は平安時代は仁和寺(御室)の荘園だった
2012年9月20日木曜日
佐賀県・嬉野市 / 二十三夜塔
廿三夜社 大正四年
佐賀県嬉野市塩田町 本応寺山門下
伝染病が流行して町内で十数名余が死亡したとき、三夜さんを祭ればよいというので建立され、七月二三日に灯籠を明かし、さんもん(讃文?)等を催し、町内会の費用で行っている。
「佐賀県の民俗 下巻」佐賀県教育委員会編
2012年9月19日水曜日
佐賀県・嬉野市 / 二十三夜塔
佐賀県嬉野市(旧藤津郡)塩田町脇の城
天正十三季(年?)乙酉十一月吉日
「廿三夜月」と同じ堂内にあり、町史では「供養塔・墓」のジャンルに入ってますが、彫られている種字は「サク」に見えます。勢至菩薩です。いかがでしょう。
勢至だと二十三夜塔でしょうね。天正十三年は古いです! 1585年。
2012年9月18日火曜日
佐賀県・嬉野市 / 二十三夜塔
佐賀県嬉野市(旧藤津郡)塩田町脇の城
廿三夜月 嘉永五子 三月吉祥日
その下に、塩田下町 施主 講中 とある。
下町?・・・いいのでしょうか。
この辺り、バス停は「下町」ですが、脇之城という地名のようです。
廿三夜「月」・・・というのも初めて見ました。
嘉永五年は1852年。
2012年9月17日月曜日
佐賀県・嬉野市 / 二十三夜塔
二十三夜尊 天保十四年癸卯(みずのと・う)年
佐賀県嬉野市塩田町真崎の福富地区
左側に・・吉良・・建立とあるようだが読み取れず。天保十四年は1843年。
台座に田中弥次郎外、村山、古賀、納富、椛島等の名が刻まれている。
大牟田というバス停から田んぼの中の道に入っていく。ゲートボール場
そばに石碑が並んで立っている。二十三夜尊は向かって右から2番目。斧のような形で、下の方に文字が彫られている。
2012年9月16日日曜日
佐賀県・嬉野市 / 廿三夜塔
佐賀県嬉野市(旧藤津郡)塩田町南下久間 バス通りから少し登ったところに 「維盛社」
平家の落人、三位中将平維盛(これもり)をまつる。丘の上で見晴らしがいい。脇に三つの石碑祠がたっている。
文字塔の廿三夜尊 慶応元年(1865)
2012年9月15日土曜日
佐賀県・嬉野市 / 二十三夜塔
二十三夜尊 嘉永四年 佐賀県嬉野市塩田町
造立者の名前などたくさん彫られているようですが、読み取れません。嘉永四年は1851年。
八天神社から五町田方向に戻る途中、田んぼの向こう、山の麓に石垣が見える。 味島神社。
拝殿脇にたくさんの碑祠が並んでいる。
天女系廿三夜尊。東大寺大仏殿前の八角灯籠の天女たちを思い起こさせる。
2012年9月14日金曜日
佐賀県・嬉野市 / 二十三夜塔
佐賀県嬉野市塩田町
こちらも鳥越八天神社の、石段わきの小さなお堂にある廿三夜塔。
万延元年の二十三夜塔に似ているが新しそう。像の下に人名は彫られているが、年は未確認。隣の石像は役(えん)の行者。八天狗神を祭る八天神社。
修験道の坊として創始された。
2012年9月13日木曜日
佐賀県・嬉野市 / 二十三夜塔
廿三夜尊 万延元年 庚申秋七月
佐賀県嬉野市塩田町谷所の八天神社(下宮)を通り過ぎてしばらく行くと、鳥越という所に八天神社の中宮がある。下宮におとらず立派な石垣に肥前鳥居。
石段を登って行くと、突然道がなくなり、本殿かと思った建物は民家だった。驚いて引き返すと草刈りに行く途中のおばさんがいて、そこに二十三夜塔があるよと教えてくれる。女人禁制の石碑もあるらしい。この上に上宮があるのか。
階段の横にあって、最初は何だか分からずエビのように見えて、きれいだなと写真に撮った石像。あとで町史をぱらぱらめくっていたら、これが廿三夜尊と気がついた。
2枚目の写真は、塩田町史 上巻431ページ。
佐賀県・嬉野市 / 二十三夜塔
(二十三夜塔・像塔) 明治十八年
佐賀県嬉野市塩田町 上福天神
参道の入り口に少し低い肥前鳥居あり。夏の雑草の繁る石段を登って行く。
天神様本殿の右側に沢山の石碑、石塔。
めずらしい、きのこ(なば)型をした、なばたけ講石祠らしき物も見える。
薄い三日月の上に勢至菩薩か。花のような雲のような。塩田石工の作。
2012年9月6日木曜日
聖徳太子塔 / 宮ヶ谷戸
聖徳太子 文久二壬戌年 八月二十三日営 講中(塔の裏側?未確認)
聖徳太子は、大工・左官・畳・鍛冶などの職人やきこり・木挽き達の守り神で、太子講は組合的役割もはたしたらしい。
この塔については当地の峰岸家の古文書に記載がある。
「太子塔之事 文久二戌年十一月
太子講
連中
満会
ニ相成供養致 石塔大橋之辺江申候 石屋作料五両弐分 外諸懸り八両弐分程 合十四両程相懸り申候
世話人 夏地 孫兵衛 宮谷戸 三郎左エ門」
1両がどのくらいの価値か?幕末には大分下がっていたようだが。
2012年9月5日水曜日
馬頭観世音 / 大沢
(馬頭観音像) 施主 小林長右衛門 (年号等不明)
肩から下げた薄い布、天衣(てんい・てんえ・てんね)が、すらりと長いタイプ。
年紀銘は読めないようです。
2012年9月4日火曜日
馬頭観世音 / 大沢
(馬頭観音像) 供養仏 施主 浜中茂 □ 同苗善右衛門 寛政五丑年七月吉日
一駄荷は、馬一頭に背負わせた荷の分量で、米なら左右に1俵ずつ、炭だと左右3俵ずつで、合計で120kg!
これで山道を行くのはつらく危険ですね。 一人で複数頭を引くこともあったかもしれません。
2012年9月3日月曜日
馬頭観世音 / 和田
馬頭観世音 島(嶋?)田岩吉 明治四十二年二月十八日
ほかにも文字が彫られているが、読み取れない。 文字塔は新しい。明治も終わる頃。1909年。
時代が下るにしたがい、特定の馬の供養を目的に、墓標的な意味で造立されるものがでてくる。上から下へだんだん文字が小さくなっている。
2012年9月2日日曜日
馬頭観世音 / 日向平
(馬頭観音像) 馬頭供養 文政六癸未天八月吉日
供養の「養」の字が異体字で、上下のつくりが左右になっている。(良が右に動いている)
馬頭観音は、一面・三面・四面で、二臂・四臂・八臂があるといわれるが、檜原村ではほとんどが一面二臂像。
また本来は、赤色・憤怒相・三眼で牙があるとされる。怖い像容だが、やはり檜原村では穏やかな表情の「慈悲相」しか、今のところ見ていない。
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