2013年3月31日日曜日

謎の関志路氏 / 檜原村

 ずうっと遡って、記録の最初、天正二年(1574)の当番に「関白藤原」とあります。
 天正六年(1578)の当番には、「関白左京進」。天正といえば、戦国時代。武田信玄が亡くなったのが1573年。天正遣欧使節で4人の少年がローマへ派遣されたのは1582年。



 二番目の写真の一番右は、橘の氏重。豊臣勢の小田原攻めの時、八王子城などと共に攻められ落城、自害した、檜原城主、平山氏重。
 つぎは岡部氏。三番目が関白左京進。四番目は濱中氏。・・・岡部・濱中さんは今でも檜原村に多い姓です。
 郷土資料館のS女史に、「しろ」は変体仮名で「志路」と書く!と教えていただきました。そうですね!大発見。 関白・・・関代・・・関志路。



氏重のお墓といわれている五輪塔。(千足地区)


2013年3月27日水曜日

謎の関志路氏 / 檜原村

 また少しさかのぼると、享保十一年の翌年予定者と、十二年((1727)当番に、関白太郎兵衛。享保廿年(1735)に翌年予定者として関白太郎兵衛
 享保廿一年(1736)の当番には、変わって、関白半七。 元文二年(1737)当番にも、関白半七
 享保六年の翌年予定者と、七年(1722)の当番に、関白甚之助

 正徳三年、四年の翌年予定者と、五年(1715)、六年(1716)の当番に、関白万右衛門
 宝永六年の翌年予定者に、向甚助(向は、小字名か)。七年(1710)の当番に関白甚助
 宝永二年の翌年予定者と、三年(1706)の当番に、関白甚左衛門
 元禄十六年(1703)の翌年予定者に、関白甚右衛門(こちらは右)。その後の当番者名には出てこない。




梅がつぼみ、口留番所に日が差す。後ろは村役場。

2013年3月24日日曜日

謎の関志路氏 / 檜原村

 古い方へさかのぼると、嘉永六年(1853)に翌年の予定者で、「迎宿■■次郎倅  関白 宮太郎」。ペリー来航の年ですね。
 翌年嘉永七年の当番に同じ名前があります。

 天保九年(1838)の当番に「関白 隆次郎」。前年の記述に、天保七申七月より大飢饉ニ付米穀高値ニ御座候・・・とか、当番中かゆをたべ相勤・・・などとあります。

 天保三年(1832)の当番に「関白 甚左衛門」 、文政四年(1821)に「関白 竹吉」、そして文化十二年(1815)と、享和四年(1804)の当番にも、同じ竹吉さんがでてきます。



檜原村の集落の入口あたり


 

2013年3月21日木曜日

謎の関志路氏 / 檜原村

 その後の記録では、明治16年に、「関志路 竹吉」
 少し飛んで、明治33年に、「関代 竹吉」・・・名前は同じだが、「代」となっている。同一人物かどうかは不明。
 明治38年には「関代 高次」で、此代人嶋崎重治となっている。
 少なくとも明治38年前後までは、この村の上元郷地区に「関代氏」、あるいは「関志路」が住まわれていたという事が分かった。




2013年3月18日月曜日

謎の関志路氏 / 檜原村

 御餇(おとう)の記録は春日神社そばの小室家に代々保管されていたらしい。
 木の箱に納められていて、眠るときは枕元に置いた、とある。
 埼玉大学文化人類学研究会の報告書に、その記録が翻刻されているのを見つけた。

そしてその記録をたどってみると、文久二年(1862)の当番名の中に、おそらく翌年の当番として、「向宿 関志路宮太郎」とでているのを発見。
 廿三夜塔の建立年は6年前の安政三年(1856)なので、この方が建てた可能性もある。

 翌年、文久三年の当番をおこなった人の名は、「向宿 関白甚八」となっている。なんらかの事情で倅などと交代したのではと、思われる。 表記が「白」に変わっている。
 どちらでもよかったのか、あるいは分家等であって一部変更されたか。

奥の祭壇に先を尖らせた、山もりの「おとう飯」が見える。




謎の関志路氏 / 檜原村

 御餇(おとう)神事。 3月1日の夜、実際は12時も過ぎる頃、6名前後の当番が川で禊をしたあと、火打ち石で火をおこし、お供えする米を炊く。
 祭日前の一定期間、「きりび」といって禁忌をまもり精進潔斎する。

川での禊の後、神社へ向かう。といだ米を担ぐ当番もみえる。橘橋を渡る。



 火打ち石を打つのは、一人3回まで。全員が火をつけられなかったら禊のやり直しになる。
柳田國男の「日本の祭」には、「西多摩郡の檜原村のように、・・・・厳重なる潔斎を重ね、もし途中で女に逢うと、何度でも川の流れに引き返して、寒中に水浴をしなおすという例さえある」とでている。
 火打ち石を念入りに確かめる。



 今年は無事に二人目で火がついた。


炊きあがった米は白木の大きな椀に、高々と盛られる。

この神事の参加者(当番)が、元亀三年(1572)から記録されている。

2013年3月12日火曜日

謎の関志路氏 / 檜原村

 連絡いただいた関志路氏は、藤沢生まれで福島育ちということでした。モトクロスをやられていて、震災後はNPO法人を立ち上げていらっしゃるようです。
 ネットで見ると、ほかにも福島で何件か関志路さんという名前が出てきましたが、ご家族・親戚でしょうか。
 サブカル系の作家で、ひらがなの「せきしろ」さんという方もいらっしゃるのですね。こちらは北海道出身とあります。偶然か、福島大学中退とでていました。

 口留番所を過ぎ、秋川渓谷にかかる橘橋を渡って三差路を右に行くと、すぐ春日神社です。三月一日の深夜、御餇(オトウ)という神事が行われます。

                      橘橋から見た秋川渓谷



                          春日神社



御餇(オトウ)の説明碑




2013年3月10日日曜日

謎の関志路 / 檜原村

 廿三夜塔に彫られている「関志路氏」という言葉が、苗字のようだなと思ってもいったい誰なのか、何故ここにあるのかわかりません。
 何の手がかりもないままでいたところ、突然福島在住の「関志路」氏よりコメントがはいりました。
「先祖かもしれません・・・」

 
 廿三夜塔のある山王様から少し西へ進むと、橘橋の手前に「武州檜原村口留番所」があります。 案内板によると、江戸幕府直轄の関所が20か所、番所が33か所あって、そのうちのひとつです。


 
  
甲州街道と、甲州裏街道(青梅街道)のあいだを通る、甲州中道は、秋川渓谷から浅間尾根道へと続きます。


 番所の向かい側は、村の里正で関守だった吉野家。







2013年3月7日木曜日

謎の関志路氏 / 檜原村

 三文字の名前なので、最初は中国名?とか、魯山人のような号、ペンネーム?なのかと考えたりもしました。
 近くで出会う人に尋ねてみますが、そんな名前は村にないし、聞いたことがないという返事ばかり。昔のことでもあり、何だかよくわからないなと、思っていました。





 
石碑が建てられたのは、安政三年1856年、世の中がどんどん開国に向かっている頃ですね。

2013年3月3日日曜日

謎の関志路氏 / 檜原村

 檜原村は、江戸日本橋より十六里。北側の山向こうは奥多摩町、西は山梨県になります。
JRだと中央線立川より、青梅線に入り、拝島より五日市線。終点の武蔵五日市下車。
バスで檜原街道を西へ向かうこと約30分。家並みが現れ檜原村役場につきます。
役場のそばで、檜原村中心地の三差路。正面は城山。




 少し戻った山側(反対側は秋川の渓谷です)に山王様、日枝神社があります。




向かって右奥の椿の樹の下に、石碑が並んでいます。
いちばん左が、赤みががった石の「二十三夜塔」です。安政三年(1856年)。




右上が少し欠けているようです。大雨で山が崩れるようなことがあったのかもしれません。



近寄ってみると左側に「関志路氏」と彫られています。