2013年4月24日水曜日

山王権現 / 上元郷

奉納山王大権現

明和八年卯六月吉日

日枝神社の脇にありますが、日枝神社は山王様と呼ばれています。
日枝大社は比叡山のふもと坂本にあり、比叡山の鎮守ということです。
この神社の神使は猿。

大きな笠が載っていますが、本来のものかどうか。
明和八年は、1771年。






2013年4月23日火曜日

回国塔 / 下元郷

回國供養塔  願主 自覚

明和二乙酉小春吉旦

 大乗妙典の法華経・妙方蓮華経、を六十六か所の霊場におさめるため諸国を回る。
回っていることを知らせる。あるいは回りきったか。

 この行者を六十六部とか、六部と呼んだ。
山伏姿で家々を回ったものも、六部と呼ばれている。
自覚というのはお坊さんというより、行者か。

 回国途中で死亡した行者を、土地の人が弔った供養塔もある。




道祖神 / 下元郷

猿田彦大神  万人講

天保九戊戌歳
神日

 正面上部の猿の字が、大きく欠けている。村史のリストには 「万人講」とあるが、
その文字は見つからない。
 向かって右側面に、力強い大きな字で「天保九戊戌(つちのえ・いぬ)歳」は、1838年。
 左側面には、「神日」

村の入り口、人家が始まるあたりに、馬頭観音や回国供養塔などと並んでたっている。







2013年4月21日日曜日

謎の名号塔 / 檜原村

 供養塔にある天明4年(1784年)には、代官江川太郎左衛門ではなく、伊奈忠尊が郡代で、その年まだ弱冠20歳だが、勘定吟味役上座を任命されている。

 勘定吟味役は勘定所に設置され、旗本・御家人から起用される。 4名から6名で老中直属。勘定所を監査。江戸城中の間に詰めていた。

 幕府の勘定所の役割は、①幕府財政の管理や、②天領での年貢徴収、③長崎貿易、④郡代・代官の監督、⑤貨幣改鋳などに関することか。
 享保期(1721)に、農・財政担当の「勝手方」と、訴訟関係の「公事方」にわかれている。

 やはり二人は勘定所へ訴え出でたのだろうか。




4月なかばの春祭り。五郎左衛門さんの中里地区





 

2013年4月20日土曜日

謎の名号塔 / 檜原村

 「江戸ニ而牢死致候」・・・とはどういうことか。二人続けてなので、気になります。

 二人はどこの役所へ訴え、何故牢に入れられ、どうして亡くなったのか。

 有名な伊豆韮山家の、江川太郎左衛門という人が、江戸幕府の代官職を代々同じ名前で世襲しています。
 伊豆・相模・駿河・甲斐・武蔵の天領の代官です。檜原村とは縁も深かったようで、明治の初め、檜原は韮山県に属していたこともあります。「江川家文書」が、かなりアーカイブ化されているようです。

 天保六年(1834)頃、幕府直営の御林山(おはやしやま)の木を許可以上に大量に伐ってしまう不祥事があり、その当事者は江戸送りで入牢後、四か月で牢死。村役人筆頭の名主も、責を負い江戸送り。やはり1か月ほどで牢死。

 天明四年(1784)の、炭運上の訴訟事件の50年ほど後のことです。



2013年4月9日火曜日

謎の名号塔 / 檜原村

 武蔵野郷土誌刊行会・有峰書店発行の「多摩の歴史 6 」(昭50)の中の、「檜原村の歴史」を書かれている濱中銀之助氏が、石碑を発見されたようだ。泥と苔にまみれていたらしい。

 過去帳により、大向の久右衛門さんは、小林姓。中里の五郎左衛門さんは岩本姓と判明とある。現在中里に岩本さんは1軒。村外に転出されたお宅が1軒。

 村史の見取図には命日が四月廿五・六日となっているが、濱中氏の記述は五月となっている。現物で確認したいのだが・・・



        吉祥寺


大向とはこの橋の辺りか。南郷駐在所そば。
 

2013年4月4日木曜日

謎の名号塔 / 檜原村

 古文書によると、檜原村と五日市の炭問屋の間で、取引の運上(税金)に関する争いがあり、村人の総代として訴えに行った中里久右衛門と、大向五郎左衛門は江戸で牢死。
 五日市側は、炭運上の徴収を通して、幕府権力をうまく利用したと思われる、と村史にある。何度も奉行所や代官所に嘆願書が出された。

 二人続けての死去は、刑死なのか。 供養塔に彫られているのは大向久右衛門・中里五郎左衛門。名前が古文書と入れ違っている。 また、施主名を刻んだ所が潰されている。お上への慮りか。
 明治の改革まで、五日市の炭独占は続いた。



吉祥寺本堂

2013年4月1日月曜日

謎の名号塔 / 檜原村

 南無阿彌陀仏と正面に記されているが (阿は、異体字) 、本体が三つに割れ、一部欠けている。自然に割れたようには見えない。
 本宿、吉祥寺本堂脇の無縁仏の間に挟まっている。

 側面には、天明四(1784年)竜次(年号の尊称)甲辰 大向久右エ門 大空直元居士
 中里五郎左エ門 雲山了玄信士   四月廿五 六寂と彫られているらしい。 両脇はすっぽりはまっていて、見ることが出来ない。 ほぼ同時に亡くなっている。 大向と中里は地区名(小名・小字)。

 いい戒名がつけられている。石塔が建てられたのは、文久二年(1862年)、没後78年もたってから。